罰則条項


 約束なんてしない。なのに、顔を会わせれば、特別の用事が無い限り、成歩堂と共に過ごす時間が設けられる。
 そして、最後は『また』という言葉で括られた。
 そこには、何の意図もないと、感情というが入り込む隙間はない、偶然の邂逅なのだと、響也はそう思い込む。
 きっと、成歩堂は本当に何も感じてはいないはずだ。特別な感情など持たなくても、彼はそういう風に接する事の出来る、ある意味残酷な男だ。傷跡をどんなに優しく撫でられても、傷はあるのだと、そう認識させられているのに大差ない。
 もう逢わない方がいいと忠告してくれた兄の言葉も正しいのだろう。
 なのに、響也は片手にケーキの入った箱を持ち階段を上がっていた。こうして、自分が此処を訪れる事は、相手にも『特別』な事ではないと思わせる程充分に、回数は重ねられている。その事実は、少しだけ可笑しい。

「お邪魔するよ。」

 そう声を掛け、扉を開ければ大概の場合は王泥喜が迎え入れてくれた。
 未だかつて、依頼人と鉢合わせをしたことがないのだから、事務所の経済状態は推して知るべしという奴だろう。食糧片手の訪問は拒絶を返された事など無い。
 しかし、今日、少々呆れの混じった出迎えの声も、黄色い悲鳴が入った声も聞き取れなかった。無人ではない。
 ソファーに座りスポーツ新聞を読んでいる成歩堂は入口に何の注意も払っていなかった。自分を歓迎しろとは言わないが、依頼人に対しても同様なのだろうか。

「……ああ、君か。王泥喜くんもみぬきも、現場だよ。」

 抑揚のない声に、取りあえず聞いてみる。「弁護の依頼…かい?」
「う〜ん、そうなんだろうねぇ。どうかなぁ。」
 全く感心がなさそうなところが、苦い笑いを誘う。肩を竦める仕草をして響也は、ケーキの入った箱をテーブルに置いた。長いは無用だろう。
「じゃあ、僕は帰るよ。生ものだから早めに食べるように伝えておいて。」
 この程度の伝言ならば、幾らなんでも伝えてくれるだろうという響也の考えは、どうやら甘いものだったらしい。急にバサと新聞を織り込む音がして、響也の前に成歩堂の顔が晒された。
 待った、待ったと言葉が続いた。
「だったら、それ冷蔵庫に仕舞っておいてくれるかな。二人ともいつ帰ってくるかわからないし。」
「ちょっと待ってくれよ。アンタ、客を遣うのかい!?」
「自分で食べる分と僕のは出しておいて。お茶は入れてあげるよ。」
 よっこいしょと、新聞を畳んでテーブルの隅に置き成歩堂は立ち上がる。仕方なくケーキを2個テーブルに出してやれば、湯飲みに入った緑色の液体が目の前に出てくる。言うまでもなく、渋そうな色合いだ。
「…皿とか、フォークとか…。」
 王泥喜がいつも出してくれるものを催促してみたが、その答えだと言わんばかりに成歩堂は手に持ったケーキを口に運んだ。諦めて、手を伸ばそうとした響也はついでにと取りだした携帯の液晶を見て、瞠目する。

 成歩堂みぬき

 現場の刑事とトラブルにでもなっているのだろうかと、リダイヤルを押した響也は、唐突に告げられた内容に絶句した。顔色も変わっていたのかもしれない。呼ばれて、視線を向けた成歩堂の表情は訝しげに顰められたものだった。
「どうしたの、響也くん?」
「おデコくんが事故に巻き込まれたから至急アンタに連絡が取りたいって、お嬢さんから…っ、アンタ携帯は!?」
「え、あ。電池切れだ。古い型はこれだから。」
 いや〜まいったなぁと、緊迫感無しに笑う男を一発殴ろうと拳を握りこんだタイミングで、事務所の電話が鳴る。成歩堂の手は、片方で響也の拳を押し留め包み、もう片方の手で受話器を取る。響也を制したまま娘の向かう彼の声は、興奮しているだろう彼女を宥める為にか、ことさら落ち着き払った声色だった。
「はい、ああ今聞いたよ。みぬきは平気かい。そう、良かった。それで…。」 
 一方的に聞こえる会話に苛々する。詳細が知りたいと焦る気持ちは抑えきれず、受話器を置いた成歩堂に噛みつくように問い掛けた。思わず、パーカーの胸元を掴み上げた手を、しかし、成歩堂は無理に引き剥がそうとはしない。

「響也くん。」
 
 名前を呼ばれ、ハッと吾に戻り引こうとした手は、反対に掴まれる。強い力で拘束されれば、自分の身体は震えている事に気が付いた。酷く動揺している自分自身に驚き、響也は成歩堂を見つめた。
 成歩堂は困ったように笑い、そして腕を解放する。
「落ち着いて、王泥喜くんの口癖は大丈夫だろう? きっと大丈夫だ。」
 おデコくんは大切な友達だけれど、こんなにも動揺している理由が浮かばない。
 胸の奥を、締め上げられて居る感覚は、今でも鮮明でぎゅっと唇を噛み締めた。動悸は、治まる事を知らないようだ。
 冷静さを失っている様子の響也を気づかってか、成歩堂はその場を動こうとはしなかった。その事に気付き、響也は俯いていた顔を上げる。
 息子のように思っている青年の事だ、成歩堂が心配していない筈はない。響也は、慌てて平気だと口に出した。
「あ、…すみ…ません。早く行って下さい。」
 しかし、成歩堂は首を横に振った。眉が八の字になっているのを、響也は初めて見た気がした。
「気になるなら一緒に来ればいい。ただし、君の顔色が良くなってからだ。」
 ビリジアンってのは、こういう色を言うんだな。響也の顔をマジマジと見つめて、感心したように成歩堂は頷いた。


 そうして、腕を引かれ、もう一度ソファーに腰掛けさせられる。
 立ち上がろうとすれば両肩を強く押し返された。半端ない力は響也の顔を歪ませる。ぐっと握られた指先が、肩に深く食い込んだ。
 強引にも程がある。状況を理解しているのかと響也は、眼前にいる男の顔を睨み付けた。自分が掴みかかった行為に対しての主旨返しにしたところで『空気読めない』にも程があるだろう。
 成歩堂はソファーとテーブルの隙間に立ち響也を見下ろしている。頭上にある光源が、却って真下にある男の顔を黒く隠していた。響也は片方の目を眇めた。
「アンタは、おデコ君の事が心配じゃないのかい!?」
「君はそんなに、王泥喜君の事が心配かい?」
 冷静な声に響也は一瞬言葉に詰まる。
 いつもの成歩堂とは確かに違う。兄の仕組んだ捏造が発覚した後に此処を訪れた時よりも、遙かに温度を感じない声。飄々とはしていても、こんな感情が欠落したような声を出す男ではなかったはずだ。
 胸に沸く感情は、恐れなのかもしれないと響也は思う。怒りとも落胆ともとれる感情の方向がわからない。この男は一体何を考えている…?
「……友人として、何も思わないほどに、僕は薄情なつもりはない。」
「なら余計に、そんな表情でみぬきの前に出ないで欲しいね?」
 息を吐いた成歩堂を響也は無防備に見上げてしまった。眉が八の字の顔は、先程と変わらないものだった。
「君がそんなじゃ、別の心配させてしまうだろう?」
 続けられた言葉には納得して、身体の力を抜く。自然に離れていく成歩堂の腕に安堵した。そうだった、コイツはお嬢さんに対しては過激に過保護な男じゃないか。
 
 …可哀相なおデコ君。
 心の中でだけそっと呟いて両手を合わせた。事故にあったのは君なのに、心配される順番は逆のようだよ。


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